「賞」なんて裏で政治が動いているに決まってんじゃん
ノーベル賞のニュースが流れてきてるので、ここで一つ。
私は、基本「賞」なるものに「すごーい」という価値観を持っていない。
これは生まれた時からそう思っていたのではなくて、人生の節目節目で遭遇した「賞」体験に基づく。
かくゆう私も若かりし頃は、賞レースなるものに没頭したこともあった。(基本、賞より賞金が欲しかったからなんだが)
元々広告ギョーカイで働いていたので、広告賞なるものがたくさん存在した。仕事でもらえるものもあれば公募を受け付けるもの。賞金が出るものもあれば、そうでないもの、様々だ。一般企業でいう社長賞なるものもある。
私も何度かトライして全く引っかからなかった訳ではないのだが、数打っていくと、どうやら賞(特に金賞やグランプリ)を取るには、審査員と応募前から面識がある方が有利というのがわかってきた。癒着である。
そう思い始めると、面白いことにどういう人が受賞するか、事前にわかってくるようになる。それと同時にものっっっっっっっっっすごい落胆する。想像&創造していた時間を返せ、と。
さらに言うなら、賞と言うのは選抜であって、分母が多いほど価値がある。だから、お前(受賞者)に花持たせてやってんだから、なんかくれ(金券とか)、と思ってしまうのである。
政治の匂いしかしない社内コンペ
しかしながら、会社では社内コンペなるものが毎年と言うか毎月乱立している。全社コンペ、所属部署コンペ、プロジェクトコンペなどなど…
ある日、実在する企業(つまりクライアント)の商品の集客増加を目的とした企画を社内コンペするという、いわば企画する間はタダ働き的な通知がきた。私は当然、そんな「応募のお知らせ」が届いてもスルーしていた。すると、同じフロアにいるバカ真面目なストプラ(ストラテジックプラナーの略)の同僚から「ひらきさん、ぜひ協力して欲しいんだけど!」と熱烈なオファーされたのだ。私は開口一番「参加してもいいですけど、営業チームが獲りますよ」と答えた。
今回の題目は、集客のための戦略企画であって営業というよりもゴールまでの流れを作るマーケティングやシステム開発に特化した人間の方が有利とは誰もが思っていた。なのに、である。
だって、審査員長が営業部長なんだもの。そして発起人が営業チームの係長なんだもの。
周囲は他の応募チームも含め「そんなこたーない」と高をくくっていた。私は渋々そのオファーを受けて企画をいくつか出した。審査は二次選考まであり、私が参加したチームはノミネートまで残った。
そこまで絞られるとどのチームが有力かなんて噂になる。誰もがストプラやマーケター、システム開発専門のいるチームを候補にあげていた。しかし、私はそこでも「いや、営業チームですね」との一点張りだった。
そして、結果は、
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営業チームが受賞である。
その瞬間、思わず「ウェーイ、当たった〜」と爆笑&小躍りしてしまった。ストプラの同僚やチームの人たちはただ唖然としていた。
賞レースに疲れた私が編み出した賞レースの楽しみ方
今回のことでもう賞レースはこりごりと思った私は次のフェーズに乗り出した。
賞レース賭博である。
主催や発起人、審査員が誰か突き止めれば大体予想がつく。ちなみに応募対象の成果物は見る必要はない。また歴史の長い賞であれば、歴代受賞をチェックすると自ずと法則が見えてきたりする。
例えば国内の広告賞(国外でもアジアの一部だとあるけど)だと、電通、博報堂、電通の下請け、博報堂の下請けが交互にバランスよく受賞していたりする。
ちなみにカンヌ映画祭やアカデミー賞などの映画賞でも受賞傾向がなんとなくわかってくる。カンヌ映画祭では「万引き家族」がパルムドールを獲ったわけだけど、社会の暗い影を浮き彫りにするような映画を好む傾向が強い。「ロゼッタ」や「ある子供」などフランスの貧しく行き場のない子供たちを二度も描いでいずれもパルムドールを受賞したデルタンヌ兄弟が最たる例である。「万引き家族」がパルムドールを受賞したことで、日本はそんな国じゃないと批判した人もいるが、そういった問題に着目しているわけではない。社風と同じで、映画祭のクセによるものなのである。
さらに、できれば審査員もチェックしておきたい。審査員が受賞作から授けらる恩恵(例えば、広告だったらクライアント、本だったら出版社)について意識すると当たりやすいからだ。
こうした観点で考えると、賞レースは中にいるより外野で予想するのも面白かったりする(当たりやすかったりする)。
今や賞を獲ったからといって、パクリ疑惑が浮上したり、コンプライアンス的にどうなの?と問われたりするくらい、一般の人は情報を持っていて一概に褒められるものでもなくなってきているのだから。